古代は諡号で整い、近代は元号が追号になっています。
「神武天皇」などの呼び方は名前ではなく「諡号(しごう)」「追号(ついごう)」という呼称で、亡くなった後に贈られる呼び方です。諡号は、天皇の生前の事蹟を顕彰する意味を込めて贈られた名前で、漢字二文字で表すのが漢風諡号、大和言葉で表すのが国風諡号です。
漢風諡号は8世紀後半に定められ、その後も天皇が亡くなってから諡号・追号が贈られてきましたが、形式には変遷があります。明治以降は元号が追号になっています。
▼天皇の御名の表記に諡号や追号がある。諡号は、天皇が崩御した後、生前の事蹟を顕彰する意味を込めて贈られた名前で、漢字二文字で表すのが漢風諡号、大和言葉で表すのが国風諡号で、例えば前者は神武天皇、後者は神日本磐余彦天皇《かむやまといわれひこのすめらみこと:引用者註》である。また追号は、諡号を合むこともあるが、一般には顕彰する意味はなく、宮号や陵名、或いは年号、さらには先の天皇の御名に因んで後の文字を冠する例などがある。
漢風諡号は、八世紀の後半に淡海三船(おうみのみふね)が『日本書紀』所載の歴代天皇の諡号を撰進したといわれているから、記紀に神武天皇の御名がみえないのは当然である。
◇米田雄介(著)『歴代天皇の皇位継承事情』2022年 柳原出版 p.7
天皇の呼び方は亡くなってから決まるのか
天皇の呼び方は、亡くなってから決まります。天皇が在位中は、現天皇はひとりだけなので、他人と区別する必要がありません。天皇でなくなった時、歴代天皇と区別するため固有名詞で呼ばれることになります。
現代でも現役の天皇のことは「天皇陛下」「今上天皇」などといい、固有の呼び方をすることは多くありません。
(当サイトでは、ひとりひとりの人物を特定するため、現在の天皇を「徳仁天皇」、上皇を「明仁天皇」などと表記しています)
▼「私たちは、歴史上の天皇を呼ぶ場合、たとえば神武天皇、仁徳天皇、推古天皇、桓武天皇、白河天皇(法皇)、後鳥羽天皇(上皇)、後醍醐天皇などといったように、○○天皇という呼称を用いることに慣れ親しんでいる。教科書や概説書の類いはみなそうである。しかし、このような呼びかたは後世の立場からそのように称したのであり、あくまでも便宜的なものにすぎない。」(p.9)
「歴代天皇には即位前、○○皇子(皇女)や△△親王(内親王)といつた個人名があったことはいうまでもない。だが、天皇として在位しているあいだは、天下に天皇と呼ばれる人は一人しかいないわけであるから、彼(彼女)のことを他と区別して呼称する必要がなかった。(中略)天皇は天皇でなくなった時、初めて固有名詞で呼ばれることになるわけである。(中略)天皇の固有名は諡号または追号ということになる。」(p.18)
◇遠山三都男(著)『名前でよむ天皇の歴史』2015年 朝日新聞出版
「神武天皇」の呼び方はどのように決まったのか
8世紀後半に、淡海三船(おうみのみふね)という人が、神武天皇をはじめ歴代天皇の諡号を定めました。漢字の諡号があらわれる以前に、和風の呼び方「和風諡号(国風諡号)」がありました。
神武天皇から持統天皇までと元明天皇・元正天皇の二代の漢字二文字の漢風諡号が定められたのは、孝謙太政天皇の勅命によるもので、その背景には中国の制度・文化の影響があったのではないかと指摘されています。
▼いわゆる諡号に関しては、六世紀前半以降、和風(国風)諡号があらわれたと考えられている。六世紀前半の安閑天皇の時代、中国から葬送儀礼としての殯(もがり、仮埋葬の儀式のこと)が導入され、そこで奉献される誄(しのびごと、弔辞に相当する)によって和風の諡号が献じられるようになったというのである(和田萃説)。
当時は有力豪族の代表である群臣らによって天皇が推戴されていたので、基本的に和風諡号は亡くなった天皇に対して群臣らが奉献するものであった。
◇遠山三都男(著)『名前でよむ天皇の歴史』2015年 朝日新聞出版 p.19-20
▼「神武天皇から持統天皇まで、それと元明天皇・元正天皇の二代、これらのいわゆる漢風諡号は天平宝字六年(七六二)から同八年(七六四)にかけて、淡海三船によって撰進されたと考えられている。」「御船(三船)は時の孝謙太上天皇の勅命によって漢風諡号を撰進したことになる。この時期は中国の法や制度、文化や歴史に傾倒した藤原仲麻呂(恵美押勝)の全盛時代の末期にあたった。仲麻呂の執拗な働きかけがあって、孝謙の勅が下されたに違いない。」(p.24)
「漢字二文字より成る諡号は、天皇と同様に中国から輸入した言葉であり概念であった。中国の支配から相対的に自立しつつも、中国を強烈に意識して国家を形成している以上、天皇の個人名をあらわす場合も中国的にならざるをえなかったのは当然といえよう。」(P.25)
◇遠山三都男(著)『名前でよむ天皇の歴史』2015年 朝日新聞出版
呼び方の形式には変化があるのか
呼び方の形式は時代によって変わっています。亡くなった天皇をたたえる「諡号」から、天皇のゆかりの地名や建物の名前に由来する「追号」となり、それが「〇〇院」になっていきます。江戸時代に「漢風諡号+天皇」が復活し、現在の「〇〇天皇」という呼び方に整理されたのは、大正時代の末期ごろということです。
▼「桓武天皇の後を継いだ平城天皇からいわゆる追号があらわれる。追号とは、崩御した天皇に贈られた名前であるが、それが諡号とことなるのはその天皇のゆかりの地名や建物の名前に由来し、その天皇を積極的に顕彰、称揚するという意識が乏しいことである。」(p.26)
「意外と一般には知られていないと思われるが、天皇号は平安時代の前半、醍醐の次々代にあたる村上天皇を最後に中絶するのである。(中略)この「追号+天皇」の消滅よりも若干以前、「漢風諡号+天皇」も光孝天皇(村上天皇の四代前)で途絶えている。(中略)そして、天皇は基本的に白河院・後白河院のように「追号+院」で呼ばれるようになる。」(p.26-27)
「久々に「漢風諡号+天皇」が復活するのは何と江戸時代末期の光格天皇のときであった。」「基本的に「追号+院」と呼ばれていた歴代の天皇が院号を取り去り一様に「追号+天皇」と変換されたのは、下って大正十四年(一九二五)のことであった。○○天皇という私たちに馴染みの深い呼称も、まだ再度使われ始めて一世紀も経ていないことになる。」(p.27)
◇遠山三都男(著)『名前でよむ天皇の歴史』2015年 朝日新聞出版
「昭和天皇」の呼び方はいつ決まったのか
1989年1月31日に「追号奉告の儀(ついごうほうこくのぎ)」が行われました。「昭和天皇」という追号(呼び方)が正式に贈られました。
▼追号奉告の儀 1月31日、殯宮で行われた。崩御時からこの日まで、故天皇を大行天皇といったが、追号が贈られ「昭和天皇」になった。
◇『皇室事典 令和版』2019年 KADOKAWA p.431(昭和天皇の大喪)
▼(誄)
明仁謹んで
御父大行天皇の御霊に申し上げます。
大行天皇には、御即位にあたり、国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され、爾来、皇位におわしますこと六十有余年、ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。
ここに、追号して昭和天皇と申し上げます。
※1989年1月31日、昭和天皇の追号奉告の儀で、明仁天皇が読み上げた誄(るい、追悼のことば、しのびごと)。天皇による誄であり「御誄(おんるい)」とされている。
なぜ元号が天皇の呼び方になったのか
明治天皇の追号が元号から採られ、それが踏襲されています。明治天皇の追号奉告の儀は1912年(大正元年)8月27日に行われ、「明治天皇」と追号されました。
それまで元号を追号にすることは行われていませんでしたが、明治天皇の業績が偉大で、それにふさわしい追号を選ぶのは容易でなく、「治世の元号は、最も聖蹟を象徴する」として、「明治」が選ばれました。
大正天皇は亡くなった翌年の1927年(昭和2年)1月20日に「大正天皇」と追号されました。元号を追号とする前例は、昭和天皇でも踏襲されました。
▼明治天皇が亡くなった後、大正元年八月二十七日に「追号奉告の儀を殯宮に行ひ、先帝を明治天皇と諡したてまつる」とあって、「皇考徳業ノ弘大ナル之フ表彰スル所フ知ラス四十五年間ノ昌代ヲ欽慕シテ明治天皇卜追称シ奉ル謹テ茲二奉告ス」と奉告の本文にある。『明治天皇紀』にはその説明に「抑々古来諡号を年号に採ること、和漢其の例を見ず、然ども先帝四十五年間の大業を表彰するに足るべき適合せる文字を得ること容易ならず、而して先帝治世の元号は、最も聖蹟を象徴するに庶幾し、是れ此の追号を選みたてまつる所以なり」とある。
(中略)
大正天皇は大正十五年十二月二十五日に亡くなり、同日に年号は昭和となる。翌年の昭和二年一月二十日に追号の奉告があり「大正ノ昭代フ啓カセラルル夙二其ノ正ヲ養ハセタマヘリ、滋二遺制二遵ヒ追号ヲ奉(ささ)ケ大正天皇卜称シタテマツル」とある。
こうして明治の前例を大正、昭和は踏襲する。
◇野村朋弘(著)『諡(おくりな)―天皇の呼び名』2019年 中央公論新社 p.181-182
