宮内庁の部局のひとつで、歴史的な資料の保存や整理・公開、陵墓の管理と調査等を行っています
書陵部の業務は幅広く、図書課(図書の保存・公開)、編修課(史料の整理・編纂)、陵墓課(陵墓の管理・調査)に分かれます。
それ以前にあった「図書寮」と「諸陵寮」という2つの組織が担っていた役割を果たすこととなり、図書寮の「書」と諸陵寮の「陵」とを組み合わせて「書陵部」になりました。
「書陵部は、昭和24年(1949)に宮内府が宮内庁に改組された際、図書寮の職務を引き継いで誕生しました。当時、図書寮は昭和21年に廃止された諸陵寮が担っていた陵墓管理の職務も受け継いでいました。このため、書陵部は図書寮と諸陵寮という2つの組織が担っていた役割を果たすこととなり、その名称も図書寮の「書」と諸陵寮の「陵」とを組み合わせたものとなりました。」
「書陵部は、図書課、編修課、陵墓課の三課体制で宮内省・宮内府時代の活動を継承しつつ、調査研究を通じて現代に引き継がれた歴史的な資料の保存や整理・公開、陵墓の管理と調査等を行うと共に、皇室の制度や文化の総合的な調査研究を行っています。」
「図書寮」と「諸陵寮」はいつからあったか
律令官制に見えますが、現在につながる組織は明治時代に設置されました。図書寮は1884年(明治17年)、諸陵寮は1886年(明治19年)の設置です。
図書寮は、皇統譜に関する事項や、歴史的資料の保存及び公開、皇室典範・詔書・勅書・皇室令の原本保存などを職務とする機関となりました。一方、諸陵寮は陵墓の管理・調査が職務でした。
両寮の名称は8世紀に成立した大宝令制下の官制に見ることができますが、現在に繋がる図書寮は明治17年(1884)に、諸陵寮は同19年にそれぞれ設置されたものです。
宮内省時代の図書寮は、当初、「御系譜並ニ帝室一切ノ記録ヲ編輯シ内外ノ書籍古器物書画ノ保存及ヒ美術ニ関スル事等ヲ掌ル所」とされ、また、一時期正倉院や博物館を所管したこともあり、皇室に伝わる文化の保存と調査研究に深く関わることになります。明治22年皇室典範が制定されると、皇統譜及び皇族の誕生等に関する記録の尚蔵が職務に加えられました。その後、明治40年や大正10年(1921)などの職掌改訂を経て、図書寮は皇統譜や陵籍墓籍に関する事項のほか、皇室や公家などの諸家に代々保存されてきた膨大な歴史的な資料の保存及び公開、皇室典範・詔書・勅書・皇室令など重要文書の原本保存、天皇皇族の実録編修、公文書類の編纂と保管などを職務とする機関となりました。一方、諸陵寮は陵墓の管理と調査等を職務としてきました。
森鷗外は図書寮と関係があるのか
森鷗外は、1917(大正6)年12月から1922(大正11)年7月に在任のまま没するまでの4年余り、図書寮のトップ、図書頭(ずしょのかみ)を務めました。東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の総長を兼任していたほか、正倉院の曝涼(虫干し)にも立ち会いました。
※図書寮(のちの書陵部につながる前史)に関する周辺情報、森鷗外の図書頭時代の紹介を参照。
明治・大正の文学者として知られる森鴎外(本名・森林太郎、1862-1922)は、軍医の最高位である陸軍軍医総監まで務め、1916(大正5)年4月に退任します。ところが、退任から時を経ずして1917(大正6)年12月、鴎外は宮内省の帝室博物館総長兼図書頭に任命されました。
帝室博物館と図書寮の二つの組織の責任者となった鴎外は、上野の東京帝室博物館(現・東京国立博物館)と当時は三年町(現・千代田区霞が関)にあった宮内省図書寮に勤務しました。鴎外は、帝室博物館総長として展示品の時代別陳列、研究紀要の発刊など、同館の運営改善に精力的に取り組みます。また、毎年秋には正倉院の曝涼(虫干し)にも立ち会いました。同時に図書頭としては、皇統譜登録や『天皇皇族実録』の編修、図書寮で保管される古文書や公文書類の管理などに努めました。
本展では、帝室博物館総長兼図書頭就任から1922(大正11)年7月に在任のまま没するまでの足跡を、宮内庁宮内公文書館が所蔵する宮内省の公文書類と、文京区立森鴎外記念館が所蔵する原稿・書簡・遺品などから紹介します。
