重祚(ちょうそ)

2回、天皇に即位することです

重祚とは、いったん天皇として即位した人が、もう一度、天皇として即位することです。

重祚の「祚(そ)」は「皇位(天皇の位)」を意味し、「重ねる祚」=「重祚」となります。これまで、3回即位した天皇はいません。

また、「祚」を使う言葉に「践祚(せんそ)」があります。践祚も「天皇になること」を意味します。「践む(ふむ)」は(手続きや経験を)ふむ、という意味なので、践祚=皇位を「践む」=天皇になる、ということです。践祚を重ねるが「重祚」です。

▼践祚とは宝祚(皇位)を践むこと。つまり「登極」「即位」と同じ意味です。

参照:皇室事典編集委員会(編著)『皇室事典 令和版』2019年 KADOKAWA p.263

重祚した天皇はいるのか

重祚した天皇は2人います。2人とも女性天皇です。

  • [35]皇極(こうぎょく)天皇 → [37]斉明(さいめい)天皇(皇極が重祚)
  • [46]孝謙(こうけん)天皇 → [48]称徳(しょうとく)天皇(孝謙が重祚)

▼皇極・斉明と孝謙・称徳天皇は二度にわたって皇位に即いており、重祚した天皇という。

参照:皇室事典編集委員会(編著)『皇室事典 令和版』2019年 KADOKAWA p.44

▼天皇系図|宮内庁

皇極・斉明天皇、孝謙・称徳天皇はなぜ重祚したのか

皇極天皇(のち斉明天皇)の場合

皇極天皇(在位:642~645)は[34]舒明天皇の皇后で、[38]天智天皇・[40]天武天皇の母です。舒明天皇の死後に即位し、蘇我蝦夷・蘇我入鹿と政治を行っていましたが、乙巳の変(645年)で中大兄皇子(のちの天智天皇)が蘇我氏本宗家を滅ぼします。

皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、中大兄が即位を辞退したため、弟の[36]孝徳天皇に譲位しました。その後、孝徳天皇が亡くなった際も中大兄が辞退したため、ふたたび天皇として即位し、斉明天皇(在位:655~661)として重祚しました。

▼孝徳天皇一人を置き去りにして倭京に帰った中大兄皇子たちの非情さに対する批判的な見方が、天皇の死によって一層人々の間に広がったのではなかろうか。そうだとすると、皇太子であるとはいえ中大兄皇子の皇位継承を快く思わぬ人々も少なくなかったのかも知れない。そのように考えられるとすると、中大兄皇子が皇位継承を見送り、皇極天皇が異例の重祚を行ったのは、ある意味、皇統の安定を図るためではないかと思われる。

参照:米田雄介(著)『歴代天皇の皇位継承事情』2022年 柳原出版 p.128-129

孝謙天皇(のち称徳天皇)の場合

孝謙天皇(在位:749~758)は[45]聖武天皇の次女です。聖武の皇子が早世したため、孝謙は(史上唯一の)女性皇太子となり、聖武の譲位で即位しました。

のちに孝謙は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の推しで大炊王(のちの淳仁天皇)が立太子したことなどから譲位して太上天皇(上皇)になります。その後、藤原仲麻呂の乱の後に淳仁天皇を廃位し、ふたたび即位して称徳天皇(在位:764~770)となりました。

▼「淳仁天皇は恵美押勝の乱で反逆者、恵美押勝に担がれたことから、高野天皇《孝謙太上天皇:引用者》によって廃帝にされたが、それより二年前の天平宝字六年(七六二)に、高野天皇は淳仁天皇らと行幸先の琵琶湖畔の保良宮(ほらのみや)から平城京に帰還した時、淳仁天皇は平城宮に入ったのに高野天皇は法華寺に入っている。しかもこの時、高野天皇は聖武天皇の詔にあったように、淳仁天皇よりも強い権限をもって政務に臨んでいたことは、国家の大事と賞罰二柄(にへい)は自らが、常の祀りと小事は淳仁天皇が行うこととすると定めていることから窺えよう。」「高野天皇と淳仁天皇の不和は押勝の乱で爆発し淳仁天皇の廃帝により、高野天皇は自らが皇位に復帰した。後に称徳天皇と諡号(しごう)を贈られている。」

参照:米田雄介(著)『歴代天皇の皇位継承事情』2022年 柳原出版 p.195-196