昭和22年の皇籍離脱とは、どんな出来事だったのか

昭和22年(1947年)の皇籍離脱とは、11宮家51方が皇族の身分を離れた出来事であり、その背景には、旧宮家側の離脱意思、新憲法の施行、皇室財産の処理、皇族費、GHQ方針が重なっていました

昭和22年10月14日、11宮家51方が皇族の身分を離れました。対象となったのは、内廷皇族と、秩父宮・高松宮・三笠宮のいわゆる三直宮を除く宮家です。

この出来事は、戦後の皇室制度を考えるうえで重要です。

なぜなら、2005年の皇室典範に関する有識者会議では、男系継承を維持する方策として、旧宮家の皇籍復帰や養子制度が論点になったからです。旧宮家復帰論を考えるためには、そもそも昭和22年に何が起きたのかを確認しておく必要があります。

この記事は、2005年の皇室典範に関する有識者会議第8回の資料「昭和22年10月の皇籍離脱について」をもとに整理します。

昭和22年10月の皇籍離脱について

皇籍離脱の法的根拠は何か

内廷皇族と、秩父宮・高松宮・三笠宮の三直宮を除く11宮家51方が、皇族の身分を離れた根拠として挙げられているのは、現行皇室典範の第11条第1項、第11条第2項、第13条、第14条第1項です。

第11条第1項は、15歳以上の内親王・王などが意思により皇族の身分を離れる場合です。これに当たる方が10方でした。

第11条第2項は、やむを得ない特別の事由による離脱です。これに当たる方が4方でした。

第13条は、離脱する王などの妃、直系卑属、その妃の離脱です。これに当たる方が32方でした。

第14条第1項は、寡妃の離脱です。これに当たる方が5方でした。

つまり、昭和22年の皇籍離脱は、一括して「11宮家が皇籍を離れた」と言われますが、法的には、本人の意思による離脱、特別事由による離脱、家族としての離脱などが組み合わさっていました。

皇籍離脱には、本人たちの意思もあった

この資料で注目すべきなのは、皇籍離脱が、外から一方的に命じられた出来事としてだけ説明されていないことです。

昭和22年10月13日の皇室会議では、片山哲内閣総理大臣が、終戦後まもなく、皇族の中から、戦後の国内外情勢にかんがみ、皇籍を離脱して一国民として国家の再建に努めたいという意思を表明する向きがあったと説明しています。

さらに、昭和22年9月30日の衆議院予算委員会では、加藤進宮内府次長が、終戦後まもなく皇族の中の二、三の方が皇籍離脱の希望を示し、その後もたびたび希望が示されたと述べています。

そして、新憲法の施行前には、ごく幼い方を除き、今回皇籍を離れることになる11宮家の大人の方々のほとんど全部が、皇族の列を離れる希望を表明していたと説明しています。

昭和22年の皇籍離脱は、GHQの占領政策や皇室財産の処理と関係していました。しかし同時に、資料上は、11宮家側にも、皇籍を離れて一国民として国家の再建に努めたいという意思があったものとして説明されています。

この点は、後に旧宮家復帰を論じるときにも、前提として確認しておく必要があります。

なぜ皇籍離脱が必要とされたのか

皇籍離脱が必要とされた理由は、一つではありませんでした。

片山首相は、皇室会議で、戦後の国内外情勢、新憲法の精神、新憲法による皇室財産の処理、皇族費などの事情から、皇籍離脱の意思を実現することが適当であると説明しました。

戦後の新しい憲法秩序のもとで、皇室財産や皇室費用のあり方が大きく変わり、それに伴って、皇族の範囲も組み替えられた出来事でした。

皇籍離脱は、すぐには実現しなかった

皇籍離脱の方針は、日本国憲法の施行前にはすでに決まっていました。しかし、実際の離脱は、昭和22年10月になりました。

その理由の一つは、皇族の身分を離れる際の一時金の問題でした。昭和22年9月30日の衆議院予算委員会で、塚越虎男宮内府事務官は、皇族の身分を離れる際の一時金について、第一回国会で審議して定める必要があったため、今日まで延びたと説明しています。

ここからは、皇籍離脱が、本人の意思や皇室会議だけで完結するものではなく、皇室経済法、国会審議、財政措置と結びついた制度的な手続だったことが分かります。

背景には、皇室財産と皇族費の再編があった

昭和22年の皇籍離脱の背景には、皇室財産と皇族費の大きな再編がありました。

昭和21年6月には、皇室から各宮家に贈られていた歳費等の支出が、5月分までで打ち切られました。

また、昭和22年3月31日までに、皇室財産から財産税と戦時補償特別税が納付されました。その合計は、昭和21年3月3日時点の課税対象皇室財産の約89%に当たるとされています。

さらに、日本国憲法の施行により、皇室財産は国に属するものとされました。皇室費用も、予算に計上し、国会の議決を経るものになりました。

皇籍離脱は、戦前・戦中の皇室財産を前提にした皇族のあり方が、戦後憲法のもとで、国有財産、皇室費用、国会の議決という制度に組み替えられていく中で起きた出来事でした。

GHQの方針も背景にあった

資料では、皇室財産に関する措置の背景には、連合国最高司令官総司令部、すなわちGHQの方針があったとも整理されています。

資料には、昭和20年11月18日のGHQ覚書「皇室財産に関する件」と、昭和21年5月21日のGHQ覚書「皇族に関する件」が挙げられています。

前者は、皇室財産を含む取引をGHQの許可なく行えないようにするものでした。後者は、天皇が皇族に対して金銭や財物を賜与・貸付してはならないとする内容を含んでいました。

つまり、昭和22年の皇籍離脱は、日本国内の制度変更だけでなく、占領期の皇室財産政策とも結びついていました。

11宮家は、皇室からどれくらい離れていたのか

資料の別紙には、昭和22年10月に皇籍離脱した旧皇族11宮家51方の概況が、系図で示されています。これは、この資料の中でも重要な図です。

そこでは、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、北白川宮、伏見宮、閑院宮、東伏見宮が挙げられています。

図では、後伏見天皇、崇光天皇、栄仁親王、貞常親王、邦家親王などを経て、11宮家が位置づけられています。

この図が示しているのは、旧宮家が皇統に属する男系の宮家である一方、昭和天皇や当時の皇室から見ると、かなり遠い系統でもあったということです。

資料の本文でも、片山首相は、皇籍離脱の意思を有する皇族について、後伏見天皇から20世ないし22世を隔て、昭和天皇から男系をたどると40数世を隔てていると説明しています。

旧宮家復帰論では、この二つの事実が問題になります。

一方では、旧宮家は皇統に属する男系の血筋とされます。
他方では、昭和22年の時点でも、当時の皇室からはかなり遠い系統と説明されていました。

この距離をどう評価するかが、後の議論の一つの焦点になります。

当時は皇位継承に不安がないと見られていた

もう一つ重要なのは、昭和22年当時、皇位継承の点では不安がないと説明されていたことです。

片山首相は、皇室会議で、当時の皇位継承資格者として、昭和天皇のもとに二親王、皇弟として三親王、皇甥として一親王がいるため、皇位継承の点で不安はないと信じると述べています。

つまり、11宮家51方が皇籍を離れる判断は、当時の皇位継承資格者の存在を前提にしていました。

ここは、2005年の議論と大きく違うところです。

2005年には、皇族数の減少と将来の皇位継承の不安が問題になっていました。そこで、昭和22年に皇籍を離れた旧宮家をどう見るかが、改めて論点になったのです。

まとめるとどうなるか

昭和22年の皇籍離脱とは、内廷皇族と三直宮を除く11宮家51方が、皇族の身分を離れた出来事でした。

その背景には、旧宮家側の離脱意思がありました。資料上は、11宮家の大人の方々のほとんど全部が、皇族の列を離れる希望を表明していたと説明されています。

同時に、新憲法の施行、皇室財産の国有化、皇族費の国会議決、一時金の国会審議、GHQ方針など、戦後の制度再編も重なっていました。

また、11宮家は皇統に属する男系の宮家である一方、昭和天皇から男系で40数世を隔てる遠い系統でもありました。

さらに、当時は皇位継承の点で不安がないと考えられていました。

したがって、昭和22年の皇籍離脱は、単に「旧宮家が皇族でなくなった」という出来事ではありません。

それは、旧宮家側の意思、占領期の政策、新憲法下の皇室財産制度、皇族費、皇位継承の当時の見通しが重なった、戦後皇室制度の大きな再編でした。

そして2005年の有識者会議では、この出来事をどう評価するかが、旧宮家復帰論の前提になりました。

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