皇位継承は、直系継承だけでなく、兄弟継承、傍系継承、両統迭立などを含みながら、時代ごとに形を変えてきました
皇位継承の歴史を見ると、皇位は常に同じ形で継承されてきたわけではありません。直系継承が中心となる時期もあれば、兄弟継承や傍系継承が目立つ時期もありました。また、女性天皇による継承、譲位、世襲親王家、両統迭立など、時代ごとの事情を反映した継承の形も見られます。
この記事は、2005年の皇室典範に関する有識者会議第3回の資料「皇位継承の時代的変遷」「天皇系図」「皇位継承の考え方が記録されている例」をもとに整理します。
7世紀以前は、直系継承だけでなく兄弟継承も目立った
7世紀以前には、直系継承を基本とする時期があった一方で、兄弟継承も顕著に見られました。
資料では、初代神武天皇から第17代履中天皇までは直系継承が基本だったと整理されています。
しかし、第17代履中天皇から第18代反正天皇への継承以後、第37代斉明天皇までの時期には、兄弟継承が顕著に見られます。たとえば、履中天皇から反正天皇、允恭天皇へと続く継承、安康天皇から雄略天皇への継承、敏達天皇から用明天皇、崇峻天皇、推古天皇へと続く継承などが挙げられています。
また、第26代継体天皇の即位は、第25代武烈天皇から見ると遠い傍系からの継承であり、異例の継承とされています。
この時期を見ると、皇位継承は、単純に父から子へと続く直系継承だけでは説明できません。兄弟継承、傍系継承、群臣による推挙などが重なり合っていたと見る必要があります。
女性天皇は、継承の節目に現れた
女性天皇は、皇位継承候補をめぐる事情や直系継承の維持と関わって即位した例が多く見られます。皇位継承の流れをつなぐ役割も果たしました。
資料では、592年に女性が初めて即位し、第33代推古天皇となったこと、その後、7世紀中頃までに皇極天皇、斉明天皇という女性天皇が見られたことが示されています。
また、7世紀末から8世紀後半には、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇という女性天皇が見られます。この時期について、資料は、女性天皇による継承を介して天武系の直系による継承が維持された面があると整理しています。
つまり、女性天皇は、単に例外的に登場しただけではありません。皇位継承の流れをつなぐ役割を果たした場面もあったと見ることができます。
7世紀から10世紀には、直系継承の傾向が強まった
7世紀から10世紀にかけては、直系継承の傾向が強まりましたが、その中にも特殊な例がありました。
第37代斉明天皇から第38代天智天皇への継承以後、直系継承の傾向が見られるようになります。第37代斉明天皇、第38代天智天皇、第39代弘文天皇の継承は直系です。
その後、奈良時代末に称徳天皇で天武系の直系が絶え、遠い傍系の光仁天皇へ皇統が移りました。しかし、その後は、平安初期に一時兄弟継承が見られたものの、10世紀前半の第61代朱雀天皇までは直系継承が支配的であったと整理されています。
ただし、この時期にも特殊な例があります。たとえば、第59代宇多天皇は一度臣籍に降下した後に皇族に復帰して即位しました。また、第60代醍醐天皇は、宇多天皇が臣籍にあった間に誕生し、後に皇族となって即位しました。
このように、直系継承が強まった時期にも、皇族復帰や臣籍との関係など、制度上複雑な事例がありました。
10世紀から13世紀には、直系継承と傍系継承が入り混じった
10世紀から13世紀には、直系継承と傍系継承が入り混じりました。
第61代朱雀天皇から第62代村上天皇への継承は兄弟継承です。その後、13世紀の鎌倉時代中期まで、直系継承と、兄弟・甥・叔父・従兄弟などによる傍系継承が入り混じりました。
この時期の傍系継承には、直系の皇嗣が生まれる前に天皇が崩御した場合のほか、摂関時代における外戚の勢力事情、院政時代における上皇の意向などが関わっていたと考えられています。
つまり、皇位継承は、血統上の位置だけで自動的に決まったわけではありません。外戚、上皇、政治情勢なども、実際の継承に影響しました。
13世紀から14世紀には、両統迭立が生じた
13世紀から14世紀には、持明院統と大覚寺統の間で両統迭立が生じました。そこでは、嫡系を重視するか、父帝の意思を重視するかの競合がありました。
第89代後深草天皇の系統である持明院統と、第90代亀山天皇の系統である大覚寺統の間で、ほぼ交互に天皇に即位するという両統迭立が生じました。これは、後の南北朝時代へとつながります。
この時期の両統迭立については、持明院統が嫡長子を尊重する考え方による継承を主張し、大覚寺統が父帝の意思を尊重する考え方による継承を主張したことが背景にあると考えられています。
ここでは、皇位継承をどう決めるかについて、嫡長子を重視する考え方と、父帝の意思を重視する考え方が競合していたことが分かります。
15世紀以降は、直系継承が中心になった
15世紀以降は、現代に至るまで直系継承が中心になりました。
室町時代以後、現代に至るまで、皇位継承は直系継承が中心になったと整理されています。
ただし、例外的な傍系継承もあります。たとえば、第101代称光天皇に皇男子がなかったため、傍系の第102代後花園天皇に皇位が継承されました。また、明正天皇から後光明天皇、後西天皇、霊元天皇へと兄弟継承が続いた例や、後桜町天皇から後桃園天皇へとつなぐ例もあります。
このように、15世紀以降は直系継承が中心になったといっても、直系が常に途切れなく続いたわけではありません。皇男子の有無、天皇や上皇の意思、継承者の年齢などによって、例外的な継承が行われることもありました。
皇位継承の考え方は、どのように記録されているのか
古代から中世にかけて、年長者優先、群臣による推挙、直系原則、皇統に属する者による継承、皇胤による継承など、さまざまな考え方が記録されています。
資料「皇位継承の考え方が記録されている例」には、時代ごとに皇位継承の考え方が記録された例が整理されています。
たとえば、『日本書紀』には、兄弟間の継承にあたり兄を優先すべきとする年長者優先の考え方や、群臣の協議によって天皇を定めたとされる例が記録されています。
また、『懐風藻』には、持統天皇が次の天皇を決めるための会議を開いた際、葛野王が直系継承が正統である旨を述べ、これによって文武天皇が即位したとされる例があります。
さらに、『続日本紀』には、皇位は代々の天皇の子孫に継承されるべきものとする考え方、宇佐八幡神の神託をめぐる皇胤による皇位継承の考え方などが記録されています。
これらの記録を見ると、皇位継承の考え方は一つではありません。年長者、群臣の推挙、直系、皇統、皇胤など、複数の観点が時代ごとに現れています。
まとめるとどうなるか
皇位継承は、直系継承だけでなく、兄弟継承、傍系継承、女性天皇、両統迭立などを含みながら、時代ごとに形を変えてきました。
皇位継承については、しばしば「伝統」という言葉で語られます。しかし、資料を見ると、その伝統の中身は単純ではありません。
7世紀以前には兄弟継承が顕著に見られ、7世紀から10世紀には直系継承の傾向が強まりました。その後、10世紀から13世紀には直系継承と傍系継承が入り混じり、13世紀から14世紀には両統迭立が生じました。15世紀以降は、直系継承が中心になりました。
また、女性天皇によって皇位継承の流れがつながれた面もありました。天皇や上皇の意思、群臣の推挙、外戚や政治情勢も、実際の継承に関わっていました。
皇位継承の考え方としても、年長者優先、群臣による推挙、直系原則、皇統に属する者による継承、皇胤による継承など、複数の考え方が記録されています。
このことを確認すると、皇位継承制度を考えるときには、「過去は一貫してこうだった」と単純に言うのではなく、どの時代に、どのような事情のもとで、どのような継承が行われたのかを見る必要があります。
その意味で、皇位継承の歴史を確認することは、現在の皇位継承制度を、伝統、制度、政治的事情、社会的な受け止め方の重なりとして考えるための基礎になります。
