歴代の女性天皇は10代8方で、いずれも男系に属し、皇位継承候補をめぐる事情や幼少の継承者を待つ事情などの中で即位しました
歴代の女性天皇は10代8方です。皇極天皇が斉明天皇として、孝謙天皇が称徳天皇として重祚しているため、代数では10代、人数では8方となります。
資料は、歴代の女性天皇について、即位の経緯、父母、配偶、即位前の身位、次代の天皇との関係、在位当時の事績などを整理しています。あわせて、各女性天皇の関係図を示し、女性天皇が皇統のどこに位置していたのかを確認できるようにしています。
この記事は、2005年の皇室典範に関する有識者会議第3回の資料「歴代の女性天皇について」をもとに整理します。
歴代の女性天皇は、何代何方いたのか
歴代の女性天皇は、10代8方です。6世紀から8世紀に8代6方、17世紀から18世紀に2代2方が即位しました。
6世紀から8世紀には、推古天皇、皇極天皇、斉明天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇が即位しました。このうち、斉明天皇は皇極天皇の重祚、称徳天皇は孝謙天皇の重祚です。
17世紀から18世紀には、明正天皇と後桜町天皇が即位しました。
資料は、歴代の女性天皇について、いずれも男系であり、寡婦か未婚であったと整理しています。ここは重要です。歴代の女性天皇が存在したことは事実ですが、それは女系継承が行われたことを意味しません。
女性天皇の即位には、どのような事情があったのか
女性天皇の即位には、政治情勢、有力者の意向、男性皇族候補の複数存在、幼少の継承者を待つ事情などが関わっていました。
資料は、歴代の女性天皇の即位経緯について、政権内の有力者の意向があったこと、皇位継承候補と目される男性皇族が複数いたこと、あるいは皇位継承者が幼少であったことなどから、容易に皇位継承者を決定できない状況があったと説明しています。
また、それぞれの女性天皇の即位には、当時の政治情勢が密接に絡んでおり、実際の事情は複雑であると見られています。
つまり、女性天皇の即位は、単に「女性も天皇になったことがある」という一文だけでは説明できません。どのような状況で、何をつなぐために即位したのかを見る必要があります。
推古天皇、皇極天皇・斉明天皇は、どのように即位したのか
推古天皇・皇極天皇・斉明天皇は、6世紀から7世紀の政治的に不安定な状況の中で即位しました。
推古天皇は、崇峻天皇が暗殺された後、男性の後継候補を容易にまとめることができない状況で即位しました。推古天皇は欽明天皇の皇女で、敏達天皇の皇后であり、敏達天皇崩御後も朝廷内で重きをなしていました。また、母が蘇我氏であったことから、皇室と蘇我氏との協調関係を保つうえでも適していたと見られています。
皇極天皇は、舒明天皇崩御後、蘇我氏が望む候補と、別の有力候補が存在する中で、ひとまず舒明天皇の皇后として即位したものと見られています。
斉明天皇は、皇極天皇の重祚です。孝徳天皇崩御後、皇位継承の有力候補として中大兄皇子がいましたが、孝徳天皇の皇子である有間皇子も有力であり、また孝徳天皇と中大兄皇子との不和もあったため、中大兄皇子が直ちに即位することは容易ではなかったと説明されています。
この三例では、女性天皇の即位が、皇位継承をめぐる政治的緊張や候補者調整と深く関わっていたことが分かります。
持統天皇、元明天皇、元正天皇は、直系継承をつなぐ役割を果たしたのか
持統天皇・元明天皇・元正天皇は、幼少の皇位継承者や直系継承の維持と関わって即位した例として見ることができます。
持統天皇は、天武天皇の皇后であり、天武天皇崩御後、皇太子草壁皇子と異腹の大津皇子をめぐる対立の中で称制を行いました。その後、草壁皇子が薨去したため、草壁皇子の子である珂瑠皇子、後の文武天皇を将来即位させることを考え、持統天皇が即位したものと見られています。持統天皇は、孫である珂瑠皇子の皇位継承を実現するために即位し、皇子が成長した後に譲位したと見ることができます。
元明天皇は、文武天皇が崩御したとき、その子である首親王、後の聖武天皇がまだ7歳であったため、首親王が成長して皇位を継承するのを待つために即位したものと見られています。
元正天皇は、元明天皇が年齢による心身の衰えを理由に譲位しようとしたとき、首親王がまだ政務を担当するには幼いとされたため、首親王が成長するのを待つために即位したものと見られています。文武天皇の姉として最も近い血縁であったことも重要です。
この三例では、女性天皇が、直系の皇位継承者が成長するまで皇位をつなぐ役割を果たしていたことが見えます。
孝謙天皇・称徳天皇は、どのように即位したのか
孝謙天皇は女性として唯一、皇太子を経て即位した女性天皇であり、称徳天皇は孝謙上皇の重祚です。
孝謙天皇は、聖武天皇の皇女です。聖武天皇と光明皇后の間には男子もいましたが、夭折しました。その後、阿倍内親王、後の孝謙天皇が女性として初めて皇太子となり、聖武天皇から譲位されて即位しました。
資料は、孝謙天皇の即位について、聖武天皇には藤原氏以外の所生の男子もいたことから、皇太子を経てなされた即位には、外戚藤原氏と光明皇后の意向が強く働いていたものと見られると説明しています。
称徳天皇は、孝謙上皇の重祚です。孝謙天皇はいったん淳仁天皇に譲位しましたが、その後、僧道鏡を信任する孝謙上皇と、淳仁天皇を擁する藤原仲麻呂との対立が起こりました。仲麻呂の乱の後、淳仁天皇は位を追われ、孝謙上皇が再度即位して称徳天皇となりました。
この二例は、女性天皇の即位が、外戚、皇太后、上皇、政権内の対立と結びつくことを示しています。
明正天皇、後桜町天皇は、どのように即位したのか
明正天皇と後桜町天皇は、近世において男性皇嗣の誕生や成長を待つために即位した女性天皇として整理できます。
明正天皇は、後水尾天皇の皇女です。後水尾天皇は、江戸幕府の朝廷への姿勢に対する憤激などから退位しました。このとき、後水尾天皇の皇男子はいずれも夭折していたため、皇后源和子所生の皇女である明正天皇が即位しました。その後、紹仁親王、後の後光明天皇が誕生したため、親王が11歳となるのを待って、明正天皇は譲位しました。
後桜町天皇は、桃園天皇の姉です。桃園天皇が崩御したとき、すでに皇嗣として定められていた英仁親王、後の後桃園天皇はまだ5歳でした。そのため、英仁親王が10歳くらいに成長するまで、桃園天皇の生前の勅定により、智子内親王が即位して後桜町天皇となりました。その後、英仁親王は13歳で譲位を受け、後桃園天皇となりました。
この二例では、女性天皇の即位が、男性皇嗣の誕生や成長を待つためのものだったと見ることができます。
系図は、何を示そうとしているのか
資料の系図は、女性天皇が皇統のどこに位置し、次代の天皇とどのようにつながっていたのかを示すためのものです。
この資料には、各女性天皇の即位経緯にあわせて関係図が付されています。そこでは、女性天皇本人が太字で示され、男系の系統が線で示されています。
この作り方からは、女性天皇が単に「女性であった」というだけでなく、皇統のどこに位置し、どの天皇の皇女・皇后・母・祖母・姉・伯母として即位したのかを確認しようとする意図がうかがえます。
とくに、女性天皇がいずれも男系に属していたこと、また多くの場合、次代の天皇への継承をつなぐ位置にいたことが、関係図によって見えやすくされています。
つまり、この資料は、女性天皇を女系継承の例としてではなく、男系の皇統の中で、どのような事情により即位し、どのように次の皇位継承へつながったのかを示そうとしていると読めます。
この資料から、何が読み取れるのか
歴代の女性天皇は10代8方で、いずれも男系に属し、皇位継承候補をめぐる事情や幼少の継承者を待つ事情などの中で即位しました。
歴代の女性天皇は、確かに存在しました。しかし、その即位の事情は一様ではありません。政治的緊張の中で即位した例、幼少の皇位継承者の成長を待った例、直系継承をつなぐ役割を果たした例、外戚や政権内の対立と関わった例があります。
また、歴代の女性天皇は、いずれも男系であり、寡婦か未婚でした。この点は、女性天皇の先例を考えるときに重要です。
したがって、女性天皇の歴史は、「女性天皇がいたか、いなかったか」という単純な問題ではなく、男系の皇統の中で、女性天皇がどの位置にあり、どのような事情で、何をつなぐために即位したのかという問題として考える必要があります。
この資料からは、女性天皇の先例を、単に「女性が天皇になった例」としてではなく、男系の皇統の中で、皇位継承の流れをどうつないだのかという観点から読む必要がある、ということが読み取れます。
