旧皇室典範は、制定時にどのような考え方で作られたのか

旧皇室典範は、帝国憲法と並ぶ皇室法体系の根本法として制定され、皇位継承を成文法で明確にし、皇位継承資格を男系男子に限りました

旧皇室典範は、明治22年に大日本帝国憲法と同日に制定されました。現行皇室典範が日本国憲法に基づく法律であるのに対し、旧皇室典範は、帝国憲法と並ぶものとされ、皇室に関する諸法の根本法と位置づけられていました。

旧皇室典範については、明治9年から元老院で検討・立案が進められましたが、この段階では制定に至りませんでした。その後、宮内省での検討、枢密院会議での検討を経て、明治22年に制定されました。

この記事は、2005年の皇室典範に関する有識者会議第2回の資料「旧皇室典範制定時の考え方」と、その関連資料「旧法制定時の法令・資料」をもとに整理します。

旧皇室典範は、どのような位置づけだったのか

旧皇室典範は、帝国憲法と並ぶものとされ、制定や改正に帝国議会は関与しませんでした。

旧皇室典範は、現行皇室典範のような国会の議決による法律ではありませんでした。旧憲法時代には、国務法と宮務法という二つの法体系があると整理されていました。

国務法は、憲法を根拠とし、憲法に属する系統の法です。これに対して、宮務法は、皇室典範を根拠とし、皇室典範に属する系統の法です。

そのため、旧皇室典範は、帝国憲法と並ぶものとされ、皇室に関する諸法の根本法と位置づけられていました。

皇位継承を成文法にしたことには、どのような意味があったのか

旧皇室典範は、皇位継承を成文法で明確にし、その時々の天皇の意思によらない制度として整理しました。

旧皇室典範制定前の皇位継承は、不文法・慣習法によっていました。旧皇室典範は、これを成文法として明文化しました。

これにより、皇位継承の在り方は、その時々の天皇の意思や個別の判断に委ねられるものではなく、制度上あらかじめ明確に定められるものとなりました。

この点は、旧皇室典範の大きな意味です。皇位継承を「制度」として固定し、継承順位や皇族の範囲を法文で定める出発点になったからです。

旧皇室典範は、皇位継承資格をどう定めたのか

旧皇室典範は、皇位継承資格を「祖宗の皇統に属する男系の男子」に限りました。

大日本帝国憲法第1条は、大日本帝国は万世一系の天皇が統治すると定め、第2条は、皇位は皇室典範の定めるところにより皇男子孫が継承すると定めていました。

これを受けて、旧皇室典範第1条は、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定めました。

つまり、旧皇室典範は、皇位継承資格を男系男子に限る制度を、成文法上明確に定めたものです。

男系男子に限る理由は、どのように説明されたのか

旧皇室典範制定時には、男性尊重の国民感情・社会慣習、歴史・伝統、政治的権能との関係などが理由として挙げられました。

旧皇室典範制定時には、皇位継承資格を男系男子に限る理由として、当時の男性尊重の国民感情や社会慣習が挙げられました。女性天皇に配偶者がある場合、女性天皇の尊厳を傷つけるおそれがある、という考え方も示されていました。

また、歴史上の女性天皇は、臨時・中継ぎの存在であり、先例にはならないとする考え方もありました。女性天皇に配偶者を持たせることをどう考えるか、女性天皇の子が皇統をどう継ぐのかという問題も指摘されました。

さらに、旧憲法下では、天皇が統治権を総攬する存在とされていたため、政治的権能との関係から、女性天皇の配偶者が政治に干渉するおそれがあるという議論もありました。

このように、旧皇室典範制定時の男系男子限定論は、歴史・伝統だけでなく、当時の社会慣習や政治体制とも結びついていました。

制定過程では、女性・女系を認める案や議論もあったのか

旧皇室典範制定時には、女性天皇や女系継承を可能にする案や議論も存在していました。

旧皇室典範制定時にも、女性天皇を認めるべきだという議論は存在していました。

その理由として、男性尊重の考え方は一般国民間のことであり、皇室にはそのまま当てはまらないこと、男性を女性より尊重する旧慣はとるべきではないこと、歴史上も女性天皇の例があることなどが挙げられました。

また、立憲体制のもとでは、女性天皇の配偶者による政治的干渉は心配ない、女性天皇が国事を行えないという心配は当たらない、という議論もありました。さらに、男統が途絶えた場合、女統を可能としなければ皇統が途絶えるおそれがあること、欧州には女王の例があることも、女性の皇位継承を可能にすべき理由として挙げられていました。

旧皇室典範制定に至るまでの各種案にも、皇位継承資格を男性のみとする案だけでなく、女性の皇位継承を可能とする案や、女統による皇位継承もできるとする案がありました。

たとえば、明治9年案には女性も皇位を継承できるとする案があり、明治13年案には女統による皇位継承もできるとする案がありました。また、明治18年から19年頃の「皇室制規」には、女性・女系による皇位継承もできるとする案がありました。

しかし、その後、井上毅が、女性は皇位を継承できないとする趣旨の意見を伊藤博文に提出し、伊藤がその意見を受け入れたことで、女性の皇位継承を認めない方向に決着したと整理されています。

旧皇室典範は、皇族の範囲をどう定めたのか

旧皇室典範は、皇族の範囲、敬称、摂政、皇族会議など、皇室に関する制度を広く定めました。

旧皇室典範は、皇位継承だけでなく、践祚・即位、成年、立后、立太子、敬称、摂政、皇族、世伝御料、皇室経費、皇族訴訟・懲戒、皇族会議など、皇室に関する広い事項を定めていました。

皇族の範囲については、旧皇室典範第30条が、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王を皇族とすると定めていました。

また、皇子から皇玄孫まで、つまり4世までを親王・内親王とし、5世以下を王・女王としました。これは、現行皇室典範が親王・内親王の範囲を2世まで(孫まで)としたことと対比される点です。

まとめるとどうなるか

旧皇室典範は、帝国憲法と並ぶ皇室法体系の根本法として制定され、皇位継承を成文法で明確にし、皇位継承資格を男系男子に限りました。

旧皇室典範は、皇位継承を不文法・慣習法に委ねるのではなく、成文法によって制度として明確にしました。そのなかで、皇位継承資格は「祖宗の皇統に属する男系の男子」に限られました。

男系男子限定の理由としては、男性尊重の国民感情・社会慣習、歴史・伝統、政治的権能との関係などが挙げられました。

一方で、制定過程では、女性天皇や女系継承を可能にする案や議論も存在していました。最終的には男系男子限定が採用されましたが、それは初めから唯一の選択肢だったわけではありません。

このことを確認すると、皇位継承制度は「昔からそうだった」とだけ説明できるものではなく、明治期の制度設計の中で、複数の選択肢や議論を経て成文化されたものだと分かります。旧皇室典範制定時の考え方を確認することは、現在の皇位継承制度がどのような歴史的制度設計の上に成り立っているのかを理解するための基礎になります。

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